日本列島バーの旅
マスターの話にはその土地の匂いがあり、空の色があり、水の影、風のそよぎがある。 「あのマスターに会うために、あのバーで、あのウイスキーを飲みたい」 そんな夢のような旅に出ようと思った。 ————- 数多ある類書とは異なり、新たな境地を拓くエッセイ カタログでもなく、蘊蓄でもなく、思いこみでもない 11人のマスターが語る「ウイスキー的」おとなの生き方
11人のマスターが語る「ウイスキー的」おとなの生き方
065〜 網走「バー・ジアス」より抜粋
数年前の初冬、32年ぶりに網走を訪れた。
大学時代に来たときは国鉄の周遊券を利用した2週間の旅だった。小清水の原生花園で咲き乱れるハマナスやエゾスカシユリ、大らかで突き抜けるような青空が記憶に残った。
久しぶりの網走──やりたいことが一つあった。それは、ビールを飲んでラーメンをすすること。
映画「幸せの黄色いハンカチ」で、出所したばかりの高倉健扮する男が、食堂でビールを飲みラーメンを一心不乱にすするシーンが忘れられなかったからだ。
あれほど美味しそうなビールはいまだかつて見たことがない。以前サントリーで宣伝の仕事をしていた頃、ビールのシズル感を常に意識していたけれど、いつも頭の中にあったのは「あの高倉健のビール」にどれだけ迫れるかということだった。
ごく普通のグラスが健さんの前に置かれ、そこにビールが注がれる。泡がふんわり立ち、グラスの縁からこぼれそう。
健さんが言う。
「あの……醤油ラーメンとカツ丼ください」
しばらくグラスを見つめる。左手でグラスを撫でるように握り、やがて右手を添える。身を屈め、両手の中のグラスに口を持っていき、一気にグイッグイッと飲みはじめ、やがて目を瞑ってググーッと飲み干す。
グラスを置いた瞬間、ハッと息を吸い、口をへの字に結び、かすかに首を傾げ、こんどはフーッと大きく息を吐く――
ぼくもラーメンを待ちながらビールを両手で飲んでみた。
健さんほど渇いてはいなかったが、風の音を聞きながら飲むビールは苦みが効いて、舌をきりっと引き締めた。乾いた空気と渇いた喉、そしてほのかな夢や希望……これがビールの美味さの大前提なのかもしれない。
しばらくして、でてきた醤油ラーメンを健さんのように右肘を大きく上げ、身体を左に傾けて勢いよくすすり上げていると、「網走にやってきたんだ」という思いがした。